はるかなる南米紀行 T

去年の夏、白分の還暦を記念し、また、患者の皆さんや医師をはじめ多くの職員のバックアップを 受けて、南米(チリ・ボリビア・ペルー)に約2週間の旅をすることが出来た。旅行はなるべくゆった りとした中身になる様と、事前に懇意のM旅行社と相談していたのに実際こは大変な旅行となっ てしまった。あの苦しく辛い思い、それでもやり終えた達成感など何らかの形で報告しお返ししなく てはと思い、今回、さきやかな紀行文をお贈りすることにした。地理的に日本の裏側に位置し、日頃 考えることもない国々のことを書いても、大してお役に立つこともないと思うのだが、私どもの海外 旅行の愚かさ牛滑稽さ、不確実さ、それでも遭遇した幾つかの楽しさや、旅先で知り合つた人たちと の暖かいふれあいど縷々述べさせていただくことにして、その上で皆様方がお笑い、かつ堪能して いただければ幸いである。 出発(日本→アメリカ→チリ) 7月15E(土)、午前11時二人は我が家を出発。ばっちり予約した「こだま」に岐阜羽島駅で乗車。 新大阪で「はるか」に乗り換え、関西国際空港に向かう。ここまでは良かったんだ。日本から南米への 直行便は燃料その他の埋由で就航していない。だから、どうしてもアメリ力台衆国かカナダを経由しな いと南米には行けない。それは分かっていた。[関空」には15時15分頃着いたのだが、出国の手続きを 進めていても17時30分発アメリカ・ダラス空港行きのジヤンポジェット機(236人乗り)の出発する気配 がない。広い空港ロビーをあちこち訪ね歩き、ようやく私たちの搭乗する便が、約7時間遅れの翌日の 午前1時ということを知る。理由を何とか聞き出したが、それはアメリカを飛び立った飛行機内で急病 人が発生したため、機は一旦ダラスに引き返し、病入を降ろして後、再び「関空」目指しているという 情報であった。私は、この時、「今回の旅行はとんでもない旅行になりそうだ」との不吉な予感に襲わ れたが、それは図星で、その後、実際、幾多の試練をかいくぐることになる。 それはさておき、「関空」 で気の遠くなるような9時間あまりを無駄に過ごし、真夜中の1時、何とか日本を脱出。12時間余を費や してダラス・フォートワース国際空港着。到着は15日の23時だった(この頃、日本時間は16日15時頃のは ず。)この時、私たちの乗るはずのチリ行きの飛行機は、15日21時10分に既に飛び立つていた。我がジャ ンボ機が3時間早く着いていたら、もしかしたら乗れたかも知れないのに、アメリカの航空機事情は冷た くて、待つと言うことを知らなかった。それにも増して不快だったのは、入国したくもないアメリカ合 衆国に入国せざるを得ず、乗客全員がテロリストの疑いをかけられたも同然、入国審査で指紋を採られ、 また、目の虹彩か何かを写真に撮られ、泊まりたくもない空港隣接のハイヤットホテルに一泊させられ たことだつた。案内の英語があまりにも早いもんだから、ことの成り行きがよく飲み込めなかった。飛行 機会社の負担で1泊は出来たものの、食事のクーポン券を貰い損ね、時間とお金を徐々に損して行つた。 損はこうして確実に膨らんで行った。  結局、ダラスからチリまでは、一日一便しかないことも分かり、私たちは、ほぼ丸一日ダラスで過ご すことになる。それは次の日の21時10分発の便まで、これまた、何もすることのない無駄な時間を過ごす ことを意味した。隣室に泊まった青年はブラジルに行くんだと言つていたが、ブラジルに着いても、そこ から次の便2日に一回くらい)があるかないかも分からないと言って頭を抱えていたし、ある家族連れは7泊 8日の旅行なのに、6泊7日以内の旅行になると嘆き悲しんでいた。機内泊2日を含めて6泊7日では気の毒と 言うもんだ。  翌朝、ホテルにいても仕方ないので、空港行きの無料バスに乗って、10時過ぎにダラス空港に向かう。 馬鹿でっかい待合室で、太陽が真上から西の空に沈んでいくのをただ見るしかない時間を過ごす。何冊か 司馬遼太郎の本なんかも持つてきたが、読んでいてもすぐ飽きが来る。トイレはすごく綺麗だとか、東洋 人の顔をそう言えぱあんまり見かけないとか、日本の空港にはやたら飲食店が多いのにこちらではがっか りするほど少なく、それもハンバーガーの類ばかりでとても手が出せないとか、やっとありつけた「うど ん」がそう美味しくなかったとかなどなど、時間を潰しに潰して、ようやく、フライトの時間が迫つてき た。厳正な出国審査を経て、一路、目的地の一つ、チリ・サンチャゴに向かう。その飛行機は、ジャンボ 機に較べ格段に小さくオンボロだった。それでも所要時間11時間30分で7月17日7時46分、サンチャゴ・ア ルトウロ・メリノ・ペニテス国際空港に着く。およそ3日ほどかけて、日本からチリに来たような感じが していた。まっこと、チリは遠い国だった。 サンチャゴ市内など@  空港で迎えてくれたのは、チリ現地観光ガイドのM君と言う好青年だった。彼は父親の仕事の関係で、 高校生の頃、スペイン語圏内のガイドを目指したと言った。最初、ペルーでのホームステイの身分を手中 にしたが、おりしもその時(1996年12月)、ゲリラグループのトゥパク・アマル革命運動によるペルー日本 大使公邸襲撃人質事件が起こったのだ。あのフジモリ大統領が辣腕を振るった事件だ。それで、予定を変 更せざるを得ず、チリのアルゼンチン国境近くの村でホームステイを試みるとになった。最初の4ケ月は、 日常語の聞き取りが全く出来なかつたと言っていた。その剣が峰を過ぎた頃、家人の言うことが聞き取れ るようになり8ケ月あたりで日常的な会話を少しずつ交わせるようになったと言っていた。  今では、スペイン語は勿論英語も分かるし、ポルトガル語も6割くらいは理解できるのだそうだ。彼に言 わせれば、ポルトガル語はスペイン語の方言みたいなもので、南米では大国ブラジルのみがポルトガル語を 母国語にしているが(その他は全てスペイン語)、近年、南米各国間の交流が盛んとなリ、チリにはブラジ ルからも観光客などが多数押しかけるなど、南米一体化の流れが強まって来ていると言う。こんな恐ろしさ しらずの勇敢な若者もいたのだ。私の息子くらいの青年を前にして、私も高校生の頃、小田実の『何でも見 てやろう』や堀江謙一青年の『太平洋一人ぼつち』や作者不詳の『まあちゃん、こんにちは』などに、うつ つを抜かし、海外渡航や留学を夢見たことを思い出してもいたが、結果的に全然勇気がなくて、しぼんだ人 生を送ってしまつたようである。私は、彼の熱情につい引き込まれ「敷かれたレールを行くだけではない人 生もあるんだぞ」と、現在の日本の多感な青少年に言いたい気持ちに駆られた。        2007年1月初旬 診療所長 医師 S.K.